2011年3月11日、東北地方宮城沖を震源とするM9.0の巨大地震が発生、東日本を中心に日本中に大きな被害を与えた。特に大津波が押し寄せた沿岸地域の被害は大きく、当然ながら釣り産業にも甚大な損害がでている。発災直後から支援活動に乗り出し、公私ともに東北に深い縁のあるプロアングラー山口充さんは、毎年この日を宮城県で迎えている。震災から8年目の2019年3月、「一緒に行こう」と声をかけていただいた東北の旅の様子をレポートする。
旅の初日3月9日~10日前半の様子はこちら
今回の旅人
【プロアングラー】
山口充(やまぐち・みつる)
ジャンルを問わず様々な釣りに精通、J:COMチャンネルで放送中『釣りたいっ!』ではメインMCとして旬の釣りを紹介するなど、多方面で活躍するプロアングラー。フジテレビBS4K巨大魚釣りシリーズに出演、2019年秋の陣では宮城県亘理にてヒラメ釣りの12lbラインクラス日本記録に敢えて和竿で挑み、見事樹立。釣りを身近な遊びとして普及させるべく様々な活動に取り組む日本釣振興会の神奈川県支部長。バイクレーサー時代にミヤギササニシキレーシングとして活躍するなど、宮城には深い縁がある。
【魚料理研究家】
石井ちか江(いしい・ちかえ)
釣った魚を美味しく食べたい! という、料理をテーマとして日本全国で様々な釣りに挑戦している。大規模な釣りイベントでさらりと優勝をもぎ取ってしまうなど、釣りの腕前では山口さんも舌を巻くところがあるとか。
愛称(?)は石井先生。
祭りの夜に雪が降る
前日の深夜から長駆仙台まで車で移動してきて、寝る暇もなく早朝からカレイの釣り船に乗り込み、途中2時間ほど意識を失いつつ、15時頃沖上がりで帰港。16時頃いったんホテルに戻って休憩をとり、17時に目覚ましのアラーム……でハッと目が覚めた。
夜からは山口さんも毎年楽しみにしている鹽竈(しおがま)神社の「帆手祭」の見物をしに出かける。帆手祭は、鹽竈神社から神輿行列が進発、1日かけて市内をぐるりと巡る渡御が行われ、再び神社に戻ってくるという神事。特にラスト、重さ1tもある壮麗な神輿が神社の長い階段を登って帰還する数分間は困難を極める緊張に包まれ、最も盛り上がるのだとか。
なぜかこの瞬間はいつも雪が降ったりとか、何かあるんだよ、とは山口さんの談。
眠気のことは忘れたことにして、山口さん石井先生とロビーで合流。ホテルを出ると、神社に向かうのかと思いきや、いきなり近くの居酒屋へなだれ込む。
山口「お祭りの前に、釣りの反省会が必要だよな!」
……おっしゃる通りです。
船酔いで潰れた釣り船の2時間を2杯の生ビールで禊ぐ。それにしても、お2人とも元気いっぱいに飲んで食べて飲んで話が弾む。釣り人に必要な資質って、何より底なしの体力なんではないかと真剣に悩みはじめる。
山口「これはほんのおしめりだから、祭りの後で反省会本番だからね!」
鈴川「!?」
居酒屋を出ると、薄闇の海の方から存在感のある湿り気を帯びた風がぐいぐいと吹きつけてくる。日中は暖かかったが、少し肌寒い。
風に煽られるように、白装束の氏子さんや観光客が鹽竈神社の方へと足早に通り過ぎていく。そういえばテレビの天気予報では関東南岸に大きな低気圧が接近していることを告げていた。これはひと荒れくるかもしれない。
風の向こうから、市内を練り歩くお神輿行列の太鼓と鐘の音が聞こえてくる。
山口「お神輿が近い、ぼくらも急ごう」
神輿を追いかけて急ぐ人達に歩調をあわせて、鹽竈神社へと歩き始める。
どでか神輿が山を登る
どーん、どーんと鳴り響く太鼓の音についていくと、御釜神社で神輿の列に追いついた。
神輿を担ぐのは張烏帽子に白丁装束の氏子さんたちで、指揮者の掛け声のもと粛々と移動していく。「わっしょい」などの掛け声はなく、足袋の擦れるざくざくという足音と太鼓に鐘の音が鳴り響くだけの、静かで厳かな行列という印象。
神輿の後ろには陣笠に裃装束姿の人、榊を振る神職、太鼓と錫杖を持った後陣羽織の衆が固め、さらに警備の警官やパトカーが続いている。後ろからではよくわからないものの、おそらく似たような備えの先陣衆がいて、楽人が行列を先導している。全体的にまるでいくさ備のような物々しい雰囲気。行列を邪魔しない距離感でご見物がぞろぞろとついていく。
意外と足早にすたこら進む行列が鹽竈神社に近づくと、いきなり鬨の声がわいて「ワーッ」と神輿行列が走り始めた。神輿の突撃は長階段の参道まで続いて止まった。異様なエネルギー量の放出で一気にボルテージがあがる。
やがて雅楽の吹奏に導かれるように、神輿がゆっくりと1歩1歩階段を登っていく。息を呑むような時間がすぎて神輿が階段を登りきると、手拍子を打って帆手祭は終了。
一気に緊張の糸がほどけたご見物の間から、山口さんが「凄かったでしょう。さぁ飲みに行こう」と声をかけてくれた。いつの間にか熱中していて、はぐれていた。
メモがないので眠りについた時間は不明。
3月11日、早朝の塩釜散歩
朝5時に起床。前日何時に寝たのか記憶が定かではないが、たぶんよく眠れたんだろうと思うことにして外に出た。やはり天気は崩れていて、外は大雨になっていた。
散歩をしようと思い立ったのは、塩釜という街を地形的に理解してみたいということがひとつと、もうひとつは津波の記録のなかの風景の現在を自分の足で歩いてみてみたくなったから。
2011年当時、自分の友人が宮城県沿岸に住んでいたこともあって、津波の動画は食い入るように繰り返し見ていた。ここ塩釜でも高さ4mほどの津波が現代の街に押し寄せる映像はあまりにも非現実的で、衝撃以外のなにものでもなかった。
以来、何度も東北旅行には出かけることがあっても、沿岸地域には来ていなかった。無意識に向き合いたくないという気持ちがはたらいて遠ざけていたのだと思う。しかしこうして実際に現地に来たのだから、しっかり見ていこうと思った。震災当日の宮城県が雪だったことを思えば、これしきの雨など、これ……しき、いや、すごい大雨ですけどね!?
とりあえず海へ
JR本塩釜駅を中心にした塩釜の街はこんな感じ。
空から塩釜を見てみよう
港の方は一通り巡ってきたので、再び塩釜駅に戻ってきた。
松島湾や鹽竈神社でも感じたのだが、当地は沈降と隆起を繰り返した結果、台地が河蝕と海蝕によって著しく削られて切り立った断崖が点在する名勝松島の風景を生み出した崖の街。ならば崖の上にいけるのでは、と思い立った。まだ時間はある。よし……。
陸奥国の中心的要衝、塩釜
崖の上に出られれば、おそらく神社か祠があるに違いないと思って登っていったら案の定神社があった。行政の出先機関のような機能を持っていた寺院とは違い、神社はその地域を守るというような性格から、高台に作られることが多い。
いつからある神社かはわからなかったが、この塩釜に住むようになった人は必ずここに登ったはず。大きな災害などが起きた際は、ここに人が逃げ込んできたこともあったに違いない。
あるいは、太平洋を北上してきた大和人たちにとって初めて得られた天然の良港である塩釜の地の安全を見張る、砦のような機能もあったかもしれない。塩釜に隣接する陸奥国府・多賀城はそのための拠点だし、多賀城があるからこその陸奥国一ノ宮・鹽竈神社は、塩釜と多賀城を結ぶ中心地点に成立したに違いない。
……という妄想を得て、だいたい満足した。
3月11日9時、目指すは女川
散歩に一通り満足してホテルのロビーで山口さん石井先生と合流。朝食をとって、いよいよ慰霊の旅が始まった。
塩釜から沿岸沿いに進み、松島湾を眺めながら、旧東名(とうな)駅、旧野蒜駅を通過し、三陸自動車道を使って石巻まで進んで女川へ向かう。
女川で2時46分の黙祷を行うのが今日の旅の目標だ。
毎年東北に来る理由
車を走らせながら、山口さんが毎年3月11日に当地に通い詰めていることを教えてもらう。
山口「もともとバイクレーサーとしてずっと以前から東北には来ていて、そのときからの縁で釣りをするようになってからもよく通っていたわけ。それにほら、なんといっても魚の数もハンパないし、美味しい魚だらけだし」
前日の釣りで寝ていた分は差っ引いても、確かに魚の濃さは関東地方に比べたらずっと濃い。というより桁が違う。それに攻められていない分、大型の魚が釣れるのは魅力的だ。
また東北地方太平洋沿岸は黒潮と親潮がぶつかる境目であることと、松島湾や三陸沿岸など自然海岸が豊富に残っていることも、良好な漁場の形成に大きな役割を果たしている。もっと注目されてもいいはずだよなーというポテンシャルの高さは、実際に竿を出してみて理解できた。
山口「それに、こうやって車や電車で来ても、めちゃくちゃ遠いというほど遠いわけじゃない。簡単にこられるでしょう」
鈴川「!!!!??……ですね!」
山口「だから通い詰めているし、多くの仲間ができたし、東北が好きなんだよね。震災が発生して沿岸地域が多くの被害を受けたとわかって、道路が直ったらすぐに救援物資を持って現地入りもした。釣り大会の開催支援もやってきた。誰かがやらないとね、なくなってしまうんだよね。釣りの火が消えてしまう。昨日えびす屋さんで聞いたでしょう。やっとね、やっとだよ。やっと良くなってきた。だから、これから東北はもっと面白くなってくると思ってるんだよ」
実現した復興と、実現していない復興
車は仙石東北ラインの陸前大塚駅を過ぎた。それまでは以前遊びに来たときに見た松島湾の光景とさほど変わるところはないように見えた。
山口「ここからがね、つらいんだよね」
道が海沿いから少し離れて、小さな丘陵の尾根を超えて、風景が一変した。視界にだだっぴろい平地が広がる。建っている家はみな新築だが密度がまばらで、特に小さな川の向こうは元々田圃だったのかもしれないが、なにも見えなかった。
車を止めて橋の上にきて、山口さんが写真を撮り始める。
山口「ここは旧JR仙石線の東名駅があったところ。線路は流されてしまって、今はもう少し内陸の方に敷き直して新東名駅が復帰した。駅は移動したけど、家も少しずつ戻ってきた。最初きたときはもう、何もなかった。2011年に支援のために通りかかって、この一帯の被害のあまりに大きさにショックを受けてね。以来、毎年ここに来るたびに、こうやって定点観測的に写真を撮るようにしてるんだよ。復興の手応えを自分でも確かめたいから」
かつての線路を前に、カメラのシャッターと傘に叩きつける雨だれの音だけが静かに鳴り響く。
山口さんが撮影した2011年から2019年の写真アルバムの一部を公開します
高速道路の交通事情は劇的に改善していた
車は東松島から内陸部に進路をとり、鳴瀬奥松島ICから三陸自動車道に乗った。
この高速道路は2011年当時、仙台方面からはまだ石巻付近までしか開通していなかった。歴史的にも陸路の交通が不便だった三陸沿岸を縦断する道路で、宮古まで続き、そこからは八戸方面まで縦貫する高速道に接続する。東日本大震災の復興事業の柱として2011年から集中的に整備され、2020年には全線開通する見込みだという。
震災前の道路事情はずいぶん不便だった記憶があるが、これはプロジェクト的にもわかりやすい復興のシンボルといえるだろう。とはいえ、沿岸の一般道はまだ復旧していない地域も残ってはいる。
石巻からは一般道を通り、万石浦を抜けて女川町に向かう。
女川町にて
正直なところ、女川町は津波による被害で壊滅的な被害を受けた場所で、今も復興の傷跡が深く残っているところもあるのではないかと想像していた。
が、ぜんぜん違っていた。JR石巻線の女川駅は完全復活し、駅前は大型の商業区域が広がり、すっかり目新しい観光地として確立している。もちろん旧来の海辺の港町の姿は残っていないのだが、低標高にあった住宅や施設などはすべて嵩上げされた地区で再建するという大胆な復興計画が若手を中心として進み、劇的な復興を遂げたのだという。
お昼時だったので買い物がてら、食事をとることにした。
何これェ……!
なぜかこんなところにランボルギーニのショールームが……!? 違う、これはダンボルギーニだ!!! 元レーサーの血が騒ぐ山口さん、店番をされていたダンボルギーニ製作者のご子息、今野大樹さんとパチリ。
元々は内装や梱包材など手掛けていたのが、得意のダンボール加工技術が嵩じて実物大ランボルギーニを作ってしまったそう。震災の被害で消沈していた地元を沸かせようと思いついたのがランボルギーニの製作だったというのだが、今ではダンボルギーニから火がついて、様々なダンボール模型なども手掛けるようになって展示しているのだとか。これも復興のかたちのひとつか。
2時46分、黙祷
さんざん復興の町を楽しみ尽くして、山口さんが毎年来ているという定点観測ポイント、女川町地域医療センター(旧女川町率病院)に移動する。
ここは元々高台にあったため1階の浸水のみというギリギリのラインで大きな被害を免れ、被災後は町の復興のシンボルにもなったといい、津波の到達高度17mの位置を記憶に留める女川いのちの石碑が設置されている。
石碑のすぐそば、医療センター脇にはプレハブの仮設ショップが並んでいて、毎年ここで2時46分の黙祷を行っているとのこと。
今年も定点観測の写真を撮りつつその時間が近づいてくると、どこからともなく人々がそぞろに集まり始めてきた。仮設の喫茶店がラジオを流していて、NHKのアナウンサーが東京で執り行われている慰霊式典の進む模様を静かに告げている。風とともに雨脚はいよいよ強く、大粒の雨が天井板を叩く音がせわしない。
2時46分、黙祷。町内にサイレンが響き渡る。1分間の沈黙。心のなかで手を合わせる。
子供たちのために尽くしたい
黙祷がおわったあと、なんとはなしに山口さんに心境をたずねてみた。
ーーどんなことをお祈りされていたのでしょうか。
山口「ここに来るとね、海で亡くなられた方のことを想う方がいて、お祈りをして、で、わっと泣き出したりする場面に出会うこともある。いつまでも忘れられないことってやっぱりある。復興支援や振興の立場でも、そこはわかっておきたいことなんだよね。そして思うのは、未来のこと。釣りという遊びを先につなげたい。そこで一番やらなくちゃいけないのが、子供たちに釣りをして遊んでもらうことなんだよね。これに尽きるかなあ」
じゃあちょっと、コーヒーでも飲みながら、この気になる「ホヤ塩ソフト」でも食べようか。と言って山口さんは喫茶店に入っていった。うーん、なるほど、確かに気になる。うーん、大雨、ホヤ、ソフトクリーム、うーん。
実は先程ぽつぽつとお話しをしていた山口さんの後ろの喫茶店の壁に、なんとなく気にかかる物体が飾ってあって、よくよく見てみるとそれは汚れた長靴で、文字が書いてあるのだった。あれ、なんですか? と岡さんに聞いてみたら、近くで見つかったものらしい。持ち主がわからないということがこの長靴のすべてだとのことで、ここに飾ってあるのだという。
そのことを後で山口さんに伝えたら、こういうところで繋がっていくんだなあと不思議なめぐり合わせに驚いている様子だった。
実はこの後ももう少しだけ続くんですが……
女川を後にして塩釜に戻り、山口さんが長年お世話になっている料理屋さんでお食事をして、ビールで反省会をして、お店のご主人に地元の話を聞いてみたら意外な人の意外な事実がわかったり、その後また深夜まで居酒屋で反省会をしたり、翌日は塩釜の市場でお好み海鮮丼を作ったり、昨日聞いた意外な事実が本当だということが確認できたり、また長駆ドライブで美味しいものを探しながら帰ったりするのですが、長過ぎるのでここでレポートをぶった切ることにします。
山口さんと石井先生は、今年も9年目の3月11日の旅に出かけています。