桧原湖が「釣れる湖」になった理由とは【XBRAID presents「想いを編む人」】



アングラーと魚をつなぐ釣り糸は、水辺の趣味を楽しむ人の生命線。魚の鼓動を通じてこそ理解できる自然がある……。YGKはそう心に刻みながら、確かなもの作りに日々邁進しています。そして私たちと同じようにフィールドや魚、釣り人、あるいは釣りそのものと深く関わり、熱い想いを込めて仕事や活動に取り組んでいるそんなプロフェッショナルたちがいます。

●写真:細田亮介 文:前川 崇

【Profile】

目黒善一(めぐろ・よしいち)

1957年生まれ。(株)ゴールドハウス目黒代表取締役。ここ2年はご無沙汰だが年に一度、GT狙いの海外釣行を楽しみにしている。ロックフィッシュ狙いで宮城へ足を運ぶことも。

バブル時代を経て変わる故郷

目黒「生まれはこちらなんですけど、学年で1クラスしかない田舎なんで『外に出て勉強しろ』って親に言われて、中学2年からおばさんのところに下宿していました。福島市内だったんですけど6クラスありましたから驚きでしたね(笑)。遊びがスキーしかなくて、中学時代はスキーで県の大会で優勝したんですが、友達とやってるうちに東北大会でも優勝しました。高校も大学も体育会系のスキー部です。卒業後は1年だけ東京でサラリーマン。観光関係の仕事をやって戻ってきました」

桧原漁協の代表理事組合長を務める目黒善一さんは檜原湖のほとり、北塩原村で生まれ育った。もともと家は観光業を営んでおり、大学卒業当時はバブルの絶頂期ということもあって事業は順風満帆だった。

目黒「お客さんが多すぎるので『早く帰ってこい』と言われて戻ったんです。まだまだ遊んでいたかったんですけどね(笑)。それからずっとここなんです。親父とおふくろがこの建物(ゴールドハウス目黒)、第一と第二を建てて、紅葉シーズンはバスが一日50~60台、予約が1000~2000人。それくらいみんな旅行してたんですね。でもそんな時代が過ぎて、いま借金が残って大変なんですよ(笑)」

避暑からレジャーへの転換

裏磐梯には5つの有料道路(現在は無料)が集まっており、夏の避暑と秋の紅葉が観光の中心だった。11月に入ると雪が降るため、商売としては半年稼いで残り半年は店を閉めざるを得ない。スキー場ができてからは冬も賑わい一時期は大変な勢いだったが、今では『スキー離れ』が少なからず影響している。その一方、入れ替わるように観光の主力となってきたのが湖での釣りだった。

目黒「この檜原湖にバスが入って釣りのお客さんが来だしたのが25、26年前くらいですかね。その頃から貸しボートはやってましたので、だんだん増えてきたんですけど釣り用じゃなかったんです。ただ、ボートを貸してほしいというお客さんは増えてきたんですね」

目黒さんの記憶では、昔は冬にワカサギ釣りのお客さんが少しいた程度だったという。

目黒「テントを持って来ていた人もいましたけど、過酷な釣りでしたよね(笑)。最近はブームもありますが、地元で快適なドーム船を作ってから年々お客さんが増えてきました。氷が張れば小さい個室のハウスをスノーモービルでGPSに登録したポイントへ引っ張っていきます。釣れるところが限られますからね」

竿を手にして見えるもの

今でこそ海外釣行の経験も豊富な目黒さんだが、本格的に釣りを始めたのは地元に戻ってからだ。

目黒「それでも40年経ちますけど、常連さんのお客さんに教えてもらってからですね。バスもワカサギも。やはり自分がやることによって、どうすべきかっていうことが見えてきますよね」

まず気付いたのはきれいなトイレの必要性。登山やトレッキングでもよく話題になるが、女性や家族連れにとってはやはり重要だ。また、湖に人が多くなればなるほど、どこにでも用を足すわけにはいかなくなる。

目黒「最初は簡易トイレを設置しましたけど、工事現場みたいで使いづらかった。それでワカサギのシーズンはバイオシステムのトイレを導入しました。トイレを温かくしておけば女性も家族連れも気兼ねなく来れますからね。バッテリーと発電機がないと無理なので、それが一番の難点です。ただ、夏はバッテリーをレンタルボート(のモーター船外機)で使えますから」

この周辺は日本で2番目に広い国立公園でもある。環境を守るための規制はかなり厳しく、だからこその苦労もある。

目黒「建物に目立つ色を使っちゃいけないんですよ。茶色かグレーしか使えない。ワカサギ釣りの小屋もそう。コンビニも郵便局も赤が使えないんです。環境省の決まりで高さも色の制限も国立公園の中でもいちばん厳しいところなんです。自分の土地にある木1本、石1個が勝手に動かせない。全部許可が必要なんです。だから、これだけの自然が守られてるといえるんですけど、そことのバランスもあります」

その半面、檜原湖の釣りにおける規制はゆるすぎるのではないかと目黒さんは感じている。

目黒「ハッキリ言えば今ルールがないんですよ。ボートの持ち込みを登録制にしたり、釣る時間を決めたり、そんなルール作りも昨年から始めています。そういうのをやっていかないとダメですね。バスの大会が多くなって来た頃、湖が一度『潰れた』ことがあったんですよ。250人が来て、2日間で1人5匹釣ると合計2500匹。それを2年続けてやると、まったく魚が釣れなくなっちゃいました。リリースするにしても『これはちょっとマズいな』ということに気付いて、6月の産卵期の大会は全部なしにしてもらいました。今年(2021年)もコロナの影響で開催時期がずれたことがあったんですけど、団体に私が直接電話しました。一般のお客さんのためにもね」



ワカサギを増やすための変革

自らが店舗を構える湖岸の周囲でできることは限られている。だから目黒さんが漁協に入ったのもごく自然の流れだといえるが、理事になってからすでに20年以上の時間が経過した。そしてその間、漁協の体制を大きく変える行動も起こしている。

目黒「当時はうちの親父くらいの年輩の人たちが中心にやってたんです。それを世代交替のために辞めてもらって、若い人間が頑張れるような体制にしました。それからワカサギもたくさん放流できるようになりましたね。以前の放流っていうのは、シュロに卵を付着させてドボンと浸けるような、昔ながらの方法だったんですけど、今は全然違います。試験管のでっかいやつに卵を入れて温度管理をして、孵化装置っていうんですけど孵化したら自然に湖に流れ出るシステムに変わっています。ハウスの中に設置されているんですが、そういった孵化場を作ったんです。何千万もかかりましたけどね」

増やすためにはどうすればいいのか。やり方を模索していたとき、年に一度開催される全国的なワカサギの会合で知ったのがこのシステム。そして芦ノ湖のバスプロでもある山木一人さんのつてで研修に行き、ノウハウを持ち帰った。

目黒「芦ノ湖と野尻湖、そして檜原湖の3つの漁協がこのシステムをいちばん確立しているんですが、うちだけでも5億粒の卵を孵化させられるんです。昔の方法だと孵化率は30%くらいですが今のシステムだと80~90%です。もともと山木さんも仲間なので、おかげで研修に行くことができて助かりました」

ひと昔前、檜原湖のワカサギは100匹釣れれば上等だとされていたが、今では1000匹釣る人も珍しくないという。だからといって目黒さんはこれに満足もしていない。ワカサギのエサとなるプランクトンがなければ、いくら放流しても育たないからだ。富栄養の湖ならともかく、水質のよい檜原湖ではプランクトン量にも限界がある。今はこれらのバランスを見据えた放流の方法を県の水産課と一緒に考えている。

漁協の「義務」だけでいいのか

目黒「あと難しいのは、結局バスというのは(漁業権対象の)認定魚じゃないんですよ。世間一般的には“悪い魚”ってイメージがあるじゃないですか。漁協の役割というのは、認定されている魚を増やすっていうのが本来なんですね。だけど、この周辺だけでも2億、3億の経済効果があるわけで、現実としては両方を商売としてやっているわけですからね」

バスについて、原則論でいえば漁協が保護増殖する義務は発生しない。しかし、ワカサギと共に「釣れてもらわないと困る」というのが目黒さんの正直な気持ちだ。

目黒「ワカサギとバスの食害問題については、一般組合員からも言われることがありました。ただ、それも毎年ワカサギを増やして釣れるようになってきたら、だんだん言われないようになってきましたね。同様にドーム船で氷が張る前に釣っちゃうから冬に釣れなくなるんだ、という人もいましたけど、今はそんな人はいないです。そういうこともあってワカサギは11月1日から3月31日という漁期を決めたんです。前は一年中釣ってもよかったんですが」

檜原湖でバスを釣ることについて、漁協はワカサギのように「遊漁料」を徴収することができない。保護増殖の義務がない魚だから当然といえば当然だが、だからといってアングラーが好き勝手に湖を利用してもいいのか? 目黒さんはそこに違和感も感じている。

目黒「遊漁券を買わなくても釣りはできるんですよ。ただ、雑魚扱いの『協力金』という形で買って基本いただいてはいます。それでも中にはいますよ『認定魚じゃないから払わない』という人も。でも釣りを楽しむんですから協力してくださいと。ゴミ清掃の必要もありますからね。それでも700円を払ってくれない人がいるんですよ…。バスボートを持って来られる人は99.9%買ってくれますが」

また、ボートを持ち込む場合は湖上に出たらあとは自己責任、と突っぱねることができないのも地元住民の辛いところだ。もし事故が起これば動かないわけにはいかない。そんなことにならないよう新たなルールも決めた。

目黒「エンジンをかけて船が走れるのは朝6時から夕方5時までと去年決めたんですよ。それまでは真っ暗になるまでやってる人もいるし、朝も3時、4時に出てる人がいました。決めたのは早朝の騒音問題もありますが、真っ暗になってから事故が起こっても助けに行けないからです。でも、そうしたら自分が釣りをする時間がなくなっちゃった。前は夕方5時から7時までやってたんですけどね。その時間が唯一の楽しみだったんですが(笑)」

厄災を乗り越えて

2011年の震災は、ここにも大きな損害をもたらしたことは想像に難くない。あえて話題を避けていたが、先に口を開いたのは目黒さんだった。

目黒「震災があって原発問題があって、やっと10年経って落ち着いたと思ったらコロナじゃないですか。コロナも2年目ですが、逆に失礼ですけど震災のときよりも今回が大変ですよね。あのときは復興を願っていろんな人が協力してくれたじゃないですか。でも今回は移動自体ができないこともありましたから、きついです。うちの場合は修学旅行などで学生が来てくれるのと、釣りをやってるのでなんとかいけてますけど、大人の団体相手だけの観光でやってるところはやめたり潰れたりしています。だから檜原湖さまさまなんですよ」

磐梯山は明治21年に噴火しているが、そのときは3つの集落が埋没。土石流も発生して477人が犠牲となっている。100年以上昔とはいえ、住民にとっては生々しい記憶として長く残っていたに違いない。

一方で現在の美しい風景、檜原湖や周辺の湖沼を擁する自然はこの噴火によって生まれている。今では噴火を題材にした土産物もたくさん店舗に置かれているが、ここに至るまで裏磐梯の人たちの並大抵ではない苦労がしのばれる。そのような大きな自然災害を粘り強く乗り越えてきた血脈は、目黒さんにも確かに流れている。