日本のトップウォーター史を探っていくと、必ず1冊の名著に導かれることになる。それが「ブラックバス釣りの楽しみ方」。この本の著者、山田周治さんにお会いして、共著者であるトップ界の巨星、故・則弘祐さんの話をお聞きした。
文:横沢鉄平 写真:高野健三、三好健太郎、編集部
【Profile】
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リビングレジェンド・山田周治に聞く
「則弘祐」(のりひろすけ)。バスフィッシング歴30年以上のベテランなら、その名を知らぬ者は稀だろう。でも、20代30代のバスアングラーになると、ちょっと馴染みのない名前かもしれない。彼は、まだまだ日本のバスフィッシングが黎明期だったと言える1970年代後半に、『ブラックバス釣りの楽しみ方』という1冊の本を世に出した人物。その本は、多くの釣り人に多大な影響を与え、その後の日本のバスフィッシングを方向づけたといっても過言ではない。この本の題名を一読しただけでは、誰もが一般的なバス釣りの入門書だと思うだろう。しかし、ひとたびページをめくると、そこに書かれているのはトップウォーター至上主義の啓蒙書ともいうべき内容だった。第一章の見出しは「僕たちは,なぜ,サーフェス・プラッガーになったのか。」(文を区切るのは読点ではなく、カンマだった。それがまたカッコいい)。電化製品の取扱説明書だと思って読み始めたら、中身が聖書だった…そのくらいのギャップがあったと思う。
この本に散りばめられた数々の煽情的なキャッチに魅了され、サーフェス・ゲームの虜となった人は数知れない。そして、トップウォーターで釣ったバスは、それ以外のルアーで釣ったバスよりも価値が高い…という価値観が、劇的に浸透していった。出版後45年を経た現在も、トップウォーターだけを愛好するバスアングラーは相当数存在する。その源流を遡っていくと、高い確率でこの本にたどり着くだろう。則さんは13年前に他界されたが、この本にはもう一人の著者がいる。それが山田周治さん。日本のトップウォーターシーンの源流を知るために、山田さんにお会いしてきた。
――山田さんは則さんをキョショウと呼んでいたとか?
山田「そうだね。愛情を込めてそう呼んでいた。毎年、7月の命日になるとね、彼の住んでいたログハウスに人が集まるんだよ」
――たしか、山田さんが則さんに出会ったのが35歳くらいの頃で、当時の則さんはまだ23歳だったとお聞きしましたが?
山田「そうなんだよ。その頃の彼は、まだ学校を出てすぐだったんじゃないかな? でも、すでにかなり偉そうというか、まるで先生みたいだったよね(笑)」
その後、則さんが鬼籍に入る2010年まで、この2人の親交が途絶えることはなかった。
僕が初めてバスを釣った時、彼も自分が釣ったように喜んでくれた。キョショウはそういう男なんだ
――山田さんが則さんに出会ったのは昭和44年(1969年)ということですが、どんな経緯でお会いすることになったんですか?
山田「僕は当時広告代理店で働いていたんだけど、別の代理店にいた宮崎さんという方が、『面白い男がいる』と言って、彼を紹介してくれたんだ。当時、彼はアルファという会社にいて、広告の営業をしていたんだね。それまで、僕は全く釣りをやってなかった。だから、釣りはバス釣りから入ったんだよ」
――そして則さんにバスフィッシングの手ほどきを受けたんですね。
山田「そうだね。最初の1年間は、休みになると、彼がボロボロのクルマで迎えに来てくれてね。津久井湖に行って、ボートを借りて、毎週のように釣りをした。キョショウもよく付き合ってくれたと思うよ(笑)。それこそ、和船をこいで出て行くような釣り。そのうちエレクトリックモーターも使うようになった。キャスティングから何から全てキョショウから教わったけど、徹底的にトップウォーターだったね。だから、半年くらいはまったく釣れなかったよ(笑)」
―山田さんが、最初にバスを釣ったルアーは?
山田「僕が初めてバスを釣ったルアーは、残念ながらバルサ50じゃないんだよ。確か、へドンのラッキー13だったんじゃないかな? あの時は、彼も自分が釣ったように喜んでくれたよね。キョショウはそういう男なんだ。」
――則さんも山田さんも広告関係のお仕事だったので、そのつながりがきっかけだったんですね。
山田「あの頃、僕は『日本デザインセンター』という広告制作専門の会社に移ったの。その会社の専務が、梶祐輔さんという方で、当時のコピーライターのトップランナーだった。その彼が、開高健さんと同期生で、無類の釣り好きだった。日本のルアー釣りのハシリですよ。土曜日になると梶さんを筆頭にみんなで釣りに行っちゃった。僕は、その会社に釣りをしに来たのか、仕事をしに来たのかわからなかったね(笑)。それもほとんどがバス釣りだった。バス釣りには、不思議な魔力がある。僕は、宮崎さんも日本デザインセンターに誘ったんだよ。そして彼が入ったら、ますます強力なメンバーになったよね。そして、梶さんとキョショウを引き合わたこともあったね」
――則さんはどんなきっかけでバスフィッシングを始めたのでしょうか?
山田「彼はね、バス釣りに入る前は、ヘラブナ釣りをやってたんだよ。少年時代に、相模湖でヘラブナを釣っていたら、進駐軍の兵隊たちが変な釣りをしていた。それがバスフィッシングだったんだね。西岡(忠司)君と出会ったのもその頃じゃなかったかな?」
――バルサ50の原型を作っていた西岡さんのことですね。初期のバルサ50には、西岡さんのサインが入ったものもありますよね。
山田「そうそう。西岡君がバルサ50の原型を作って、面白がって使っていくうちに『これ商品にしたらどうだ?』みたいな話になった。西岡、宮崎、山田、則の4人でさ、みんなでワイワイやって、このプラグをとにかくものにしようぜとね。西岡君が試作品を持ってきては、みんなでそれを持って釣りに行ったね。当時相談に乗ってくれたのが、雑誌『フィッシング』の編集長だった吉本万里さん。万里さんが一緒にけしかけていた感じがある。彼は僕と同い年だったんだ。早くに亡くなってしまったけれど」
――そうしてバルサ50が完成したんですね。
山田「完成したバルサ50は、最初はスミスから出したんだ。ロッドもスミスで売っていた。ルアーもそうだけど、ロッドも作るのが楽しくてね! キョショウが作って、僕はそれを持って遊んでいただけなんだけどね(笑)」
――「ブラックバス釣りの楽しみ方」は初版が昭和53年ですね。私は中学時代に散々読みました。この本は、則さんと山田さん、どんな配分で書いたんですか?
山田「二人でしゃべりあってね、それを文字に起こして、文章にしたのが僕。そして原稿をキョショウに見せてね、『これを足そうか』とか、『これはいらないや』とか、言い合いながら、そうやって書き上げた」
――この本で使われた写真は津久井湖に見えますが?
山田「これはほとんど津久井湖で撮影したと思うよ。だいたいね、僕が彼からバス釣りを教わったのが津久井湖だったからね」
トップにはね。誘いに乗って、バスが出てきてくれるかどうか?その一瞬の面白さがある
――「ブラックバス釣りの楽しみ方」って、トップウォーターを推奨してますよね。やはり、則さんは当時からトップにこだわりがあったんですか?
山田「あったあった! こだわりがあったというよりも、『バスの面白さはトップに尽きる』ということだよね。その点で2人は意見が一致していたね。だから、トップウォーター以外のバス釣りは、ほとんどやらなかったなあ。釣りって、魚にしてみれば遊びではなくて真剣なんだけど、僕ら人間としてはさ、魚と遊んでるということに尽きるんじゃない? トップウォーターは、多少は釣れる頻度が減るかもしれない。でも、誘って、誘いかけて、それが成功して、いるか否か? 誘いに乗って、バスが出てきてくれるかどうか? その一瞬の面白さがある。しかも、その一部始終が目に見える。これが何よりも楽しい。トップウォーター以外のルアーも多少は集めたし、ワームを手にしたことはあるけれども、ほとんど使ったことはないね(笑)」
――その時代、すでに則さんも山田さんもその境地に達していたんですね。
山田「確かにワームも面白いと言えば面白いかもしれない。僕はね、シンキングのハードルアーには全く面白さを感じないんだ。ただ、ワームだけはじっくり誘いをかける楽しみというのが、逆に言えばあるかもしれないね。シンキングのハードルアーよりはね」
――バルサ50のカラーリングってヘドンなどのアメリカンルアーからの影響も感じますが、ジャパンオリジナルというか、独特の美しさがありますよね?
山田「ヘドン系だよね。ただ、僕はそこまではタッチしていなかった。カラーリングは完全にキョショウの好みだね。当時のアルファ&クラフトは、結構センスのいい若者が集まってたからね。でも最終的にこれで行こうと決めていたのは、則社長だったよ」
豪放磊落というイメージがあるだろうけど、どちらかというと、気の優しい男だった。わがままではあったけどね
――則さんは山田さんから見るとどんな方なんですか?
山田「みんなはどう思っていたかわからないけれど、キョショウって、酒が好きだし、ある意味カッコつけしいでもあったね。『豪放磊落』というのが皆さんの抱くイメージかもしれないけど、そんなことはないと思う。どちらかという気の優しい男だったね。気配りがあった。ただ、わがままはわがままだったけどね(笑)。僕は彼の会社に入らなかったし、彼も会社に入ってくれとは言わなかった。ただ、彼の手がけたブランドの広告やカタログは、僕が何もかも作っていたから、わかるんだ。意外に、みんなが思っているよりは、繊細なところがあったよね」
――山田さんは則さんが亡くなるまでの付き合いだったんですか?
山田「そうだよ。僕が先に千葉に移住したんだけど、キョショウもこっちに来たいと言ってね、3年がかりで土地を探していたんだよ。それで、場所を見つけてね。工場を作って、ログハウスも建てた。最終的にはあそこが彼の終の棲家になったわけだよね。東京にマンションを持っていたけどさ。ログにいたことが多かったからね」
約2時間、山田さんからお話をうかがった後、往年のタックルを保管してあるスペースに連れて行ってもらった。
山田「整理しよう整理しようとは思っているんだけどね(笑)」
壁には、おびただしい数のバスロッドが、一見無造作とも思える感じでぶら下げられていた。しかし、よく見るとL字型の金具にガイドを通してぶら下げるという、非常に効率のいい収納術だとわかった。スーパーストライカーはもちろん、白帯のFC-60、それ以前のFC-60、スピードスティックの6パワーのHOBBもある。そして、目を見張ったのはそのグリップに装着されたままのリールだった。片方はアンバサダー2500C、そしてもう一方は…フルーガー2600。トップウォーター愛好家なら、誰もが憧れる名機の登場に、鳥肌が立った。
「ちょっと、触ってもいいですか?」
いわゆるコレクターの所有するそれではない。どちらのリールも使い込まれていて、ハンドルノブはぐらつきがあり、内側がかなり摩耗している様子だった。山田さんがどれだけ釣りをしてきたのか、このタックルを見ただけで感じ取ることができた。
山田「これは僕のオリジナルのロッドなんだ。グリップは握りがぴったりこないと、嫌でしょ? だから自分でコルクをつけて、削ったんだよ。それにしても、あの頃よくそんな時間があったなあ…」
ブラックバス釣りの楽しみ方には、第3章にこんな見出しの一節があった。
“道具はからだの延長になるべきだと思う”
ひょっとして今から45年前、山田さんはこのグリップを削りながら、この見出しをひねったのかもしれない。数々のオールドルアーの中には、いくつか手作り風のプラグも混ざっていて、それはやはり山田さんのハンドメイドだった。
山田「カエルが多いのね。キョショウとよく雄蛇ヶ池に行ってたからさ。山田オリジナルのフロッグは、コルクで作ってるんだよ。浮力がちょうどいいんだ」
とても美しく、かつ釣れそうなデザインだった。このフロッグはある有名なビルダーから「僕にも作らせてください」とまで言わしめた逸品なので、あえて写真は掲載しないでおこう。ただ、ヒックリジョーに通じるものがあった。
使い込まれたオールドタックルには、様々なストーリーが刻み込まれている。それを夢想していたら、予定していた滞在時間を大幅にオーバーしてしまった。別れ際に一つ、こんなことを聞いてみた。
――なんだか、山田さんと則さんは、ちょうどいい距離感を保っていた気がします。
山田「キョショウとは、年は違えど『おいお前』と言い合える、『俺お前』の関係を保ちたかった。仲間という関係でいたかったんだ。だから、長い間一緒に仕事ができたんだと思う」
山田さんのコミュニケーション能力は、素晴らしい。まるでコルクのような、絶妙な浮力を感じた。
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