琵琶湖でバスフィッシングが注目され始めたのは1980年代のこと。今や国内はもとより世界有数のでかバス聖地として知られる湖にまで成長したことは誰もが知る。ここではそんな黎明期から琵琶湖と関わりの深い方々に、琵琶湖史を振り返っていただく。未来永劫に続く今後のバスフィッシングの礎となれば幸いだ。
●文:ルアマガプラス編集部
語り手
初の琵琶湖バス釣り本編集者にして、国内トーナメントの生き証人が語る
岸「20歳で出版社に入社して、4〜5年目の頃だったかな。琵琶湖のバスフィッシングガイドブックを出すことになって、取材にも度々行きました。その本を出版したころは琵琶湖のバスフィッシングがにわかに注目を浴びるようになった頃で、湖の地図作りがメインでした。コンビニも多くない時代だけに近隣の商店や駐車場、トイレなども隈なく探して載せましたね」
琵琶湖初のバス釣り本、反応は如何に。
岸「結果的にその本はよく売れました。発売後1ヶ月後に増刷、3〜4回は刷ったと思います。それだけ琵琶湖は注目されていたし、関東からの注文の多さに驚いたことを覚えています。ただ発行当時は社内でもバスに対しての風当たりが凄かったです。今のレベルじゃない。滋賀県漁連が中心になって『ブラックバス撲滅作戦』とかもあった時代ですから。でも、バスが急激に個体数を増やしていたけれど、駆除している様子を見ても数匹とか、そんなレベルでした。一番最初の撲滅作戦は夜間に行われ、下野(正希)さんと尾上漁港にテントを張って漁師がどれくらいバスを捕獲するのかを見に行ったこともありました」
琵琶湖バスフィッシングの黎明期は、ボートの装備やスタイルも今とは異なる。
岸「液晶魚探は90年代前半かな? バスマガジン創刊当初の80年代後半はまだ記録紙式の魚探がトッププロの主流で、それ以前はまだフラッシャーだけでしたね。フラッシャーは水深とボトムの硬さだけは表示されるので、何が沈んでいるのかを確かめるために潜っている人もいました(笑)。フリッピングが広く世に知られたのは85年にローランド・マーチンが来日したときぐらいからでしょうか。それ以前はアシ奥に海用の長く硬い竿を突っ込んでのチョーチン釣りで爆釣した思い出も。当時は恥ずかしくて誰にも言えなかったシークレットでしたね(笑)」
JBTA始動の前年となる85年、河口湖で行われた富士五湖ブラックバストーナメント85へシマノ招聘でローランド・マーチンが来日したことは知られる。
岸「その直後の琵琶湖山ノ下湾での1枚。バンタム・ブラッシュバスターのプロモーション撮影で初めてフリッピングを見て衝撃を受けましたね」
写真右は現在ソルト界で名を馳せる久保浩一さんだ。
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