
今江克隆のタックルボックスと言えばバーサスシリーズだが、実は単なる選手とスポンサーという単純な関係ではない。知られているようで意外と知らない、今江克隆とバーサスの歴史を紐解いてみよう。
●文:ルアマガプラス編集部
意外にも今江から飛び込み営業を掛けた明邦化学工業との関係のはじまり
今江克隆とバーサスシリーズを製造している明邦化学工業との関係はいつからどのようにはじまったのか。
「明邦さんは、まだ俺が商社マン(総合商社の蝶理株式会社→現在は合併して双日株式会社)時代に、社内での立場を確立させてくれた恩がある会社なんだ」
今江は商社マンとバスプロを17年間掛け持ちしていたが、商社時代の比較的早い時期の話だ。
「俺はプラスチック原料課に配属されていて、プラスチック原料を成型工場に販売する営業をしていた。JBのAOYを初めて獲ってすぐぐらいの時期だったと思うが、釣り用品も手掛けていた明邦化学さんに飛び込みで営業に行ったんだ。仕事柄プラスチック成型会社は調べ尽くしていたからね。明邦さんは当時別の商社と取引されていてウチの商社なんかまったく興味がなかったけど、清本社長(現会長)に『自分が責任を持ってアドバイスをして売れるタックルボックスを作るから原料を買ってほしい』とお願いしたんだ。契約金もいらないから、アドバイスどおりに作ってほしいとね」
サラリーマンだった今江が、契約金もロイヤリティーもいらないからウチの会社から原料を買ってほしいと言う理由は、今どきの若者には理解できないかもしれない。当時は専業バスプロという職業は存在しておらず、ほぼすべての選手は本職をしながら時間をやりくりしてプロ生活を続けていたのだ。今江は売上至上主義の商社という世界にいたため、売上を確保していれば自由に動き回っても会社からとやかく言われない面を利用してトーナメントに参戦していた。そこで目先の契約金よりも、商社マンとしての売上を増やし、会社からの自由(出社しなくても売上さえ確保できていればいい)を獲得することが重要だった。
「当時のタックルボックス界はアメリカのプラノがほぼ独占していた。明邦さんも出してはいたが、こういっちゃ悪いがとても一流品のイメージはなかった。自分が少年時代に使っていた安価な「バケットマウス」は、まさにプラノのバッタもんって感じで逆に目立った存在だったね。俺は明確にこんな機能性をもつボックスが欲しいというイメージがあったから、それを清本社長にぶつけてみたんだ」
結果、清本社長は快諾し、今江のアドバイスどおりに第一弾が作られた。それがVS8050だった。
「バスボートの真ん中にでんと置いてすべてを収納できる本格的大型タックルボックス。めちゃくちゃな金型代が掛かったと思う。しかしこれがめちゃくちゃ売れたんだ。これによって明邦さんの評価は一気に上昇し、一流メーカーの仲間入りを果たした。このボックスは下段が引き出し式になっているが、あの金型は現在のVS3045にも使われているんだ。後にラジコンのパーツボックスとしても一世を風靡したんだよ」
今江デザイン1st
VS8050
今江が明邦化学工業とタッグを組んで初めて世に送り出したのが、バスボート用の本格タックルボックスVS8050。相当高額な金型代のかかる大規模新規デザインだったが、見事に大ヒットして明邦化学が一流のタックルボックスメーカーとして認知されるきっかけを作った作品だ。
第二弾はオカッパリ兼用ボックス
「次に企画したのがオカッパリにもボートにも使えるVS3080だった。これは超メガヒット。ほとんどのバスアングラーが持っているのでは? というほど売れた。これでもう一流メーカーとしての地位は不動のものになったね」
2つのタックルボックスの大成功により、今や明邦のバーサスシリーズは日本のルアー用タックルボックスの独占企業に近くなった。それほどに一つの製品が企業の評価を変え、企業側もものづくりの姿勢に変化が起こるのだ。
「とてつもない金型投資をよくしてくれたものだと、今はメーカー経営者の立場になってさらに強く感じている。明邦さんの男気のおかげで俺は商社の中で自由な時間を作ることができるようになり、それが成績のさらなる上昇につながっていったのは間違いないし、明邦さんは一流タックルボックスメーカーとして確固たる地位を築いた。このことはバスフィッシング業界に寄与した、俺が残した功績のひとつかなと思っている。明邦化学さんは今でも本当になにひとつ不満のないメーカーだよ」
今江デザイン 2nd
VS3080
次に手掛けたのはオカッパリにも持ち出しやすい、アタッシュケース型の2段ボックスVS3080。これは超メガヒットとなり、明邦化学の一流メーカーとしての地位は不動のものとなった。
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