池原ダムはなぜロクマルの聖地となったのか?フロリダ種移入と同時期に起きた奇跡とは?

今なお「ロクマルの聖地」と呼ばれ、特別な思いを描くアングラーも少なくない池原ダム。その由来はかつて起きたロクマルラッシュによるものなのは間違いない。しかしそれはなぜ、池原で起きたのか?村田基さんが語ってくれた。

●文:ルアマガプラス編集部

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村田 基(むらた・はじめ)
1980年代後半からの第2次バス釣りブームを牽引したプロフェッショナルデモンストレーター。『まちがいだらけのバッシング』『もっとBASSは釣れる』シリーズなどが有名。現在はエリアトラウトやソルトなど釣りのカテゴリーにとらわれないフリースタイルを提唱して活躍中。

偶然が重なって生まれた奇跡のビッグバスフィーバー

バス釣りの聖地とも言えるビッグバスレイク・池原ダムを語る上で欠かせない人物がいる。長年に渡りバス釣りの楽しさを伝えてきたミラクルジムこと村田基さんだ。

1998年5月に行なわれたロケでは、日本の10パウンダー(約4.5kg)を釣ることを目標に、なんと合計6本もの60cmオーバーを釣り上げ、『ジャパニーズドリーム』という動画に収めることに成功した。村田さん自身の自己記録魚である69cm5840gも2000年に池原ダムで釣っていて、潮来つり具センターにその剥製が展示されている。

90年代後半に前代未聞のデカバスラッシュに沸いた秘境の地、奈良県池原ダム。この池原伝説は、デカバスが育まれるためのいくつかの条件が偶然にも重なり合って生まれたものだった。

「まず、池原にラージマウスバスが入ったのは1970年代後半で、僕が初めて池原に行ったのは19
81年のこと。行けば1日100匹コースですよ。めちゃくちゃ釣れた。ただ、50アップとなると300匹釣って1匹とかいうレベルで、デカバスが釣れるフィールドでは全くなかった。そのあと、1988年にヒロ内藤さん、西山徹さん、そしてオフト社の尽力で、下北山村の村長に許可を取り、大型に成長するフロリダバスが移入された。まずこれが、池原ロクマル伝説誕生の1つめの『種』」

その翌年、予期していなかった偶然がこのフロリダバスを巨大化させる。

「1989年からダム工事が始まり、水を抜いていったんです。ドローダウンですね。行ったことがある人はわかると思いますが、池原は急斜面のリザーバーです。30mくらい水位が下がったので、それから5年間くらい釣り人はほぼ立ち入ることができなかった。その間、ベイトフィッシュの密度が高まり、釣り人という天敵から解放された桃源郷でフロリダバスたちはエサをたくさん食べて巨大化しました。水位が回復したあとの1996年に池原ダム復活と銘打って番組を作ろうということになり、『釣りロマンを求めて』で久しぶりに池原ダムに行った。そこで目の当たりにしたのは、かつては飲めるほどきれいだった池原の水が濁っている光景。減水時にいろいろな種が落ちて植物が繁茂するんですね。ダム工事が終わってそこに水が張ると、栄養素が上がってミジンコなどの動物性プランクトンが増える。それを食べる小魚も増える。小魚を食べるフロリダバスの巨大化にますます拍車がかかる。ロクマルにまで育つ条件が揃いすぎていた」

2000年6月8日に村田さんが池原ダムで釣り上げた69cm5840g。自己記録であるこの魚の剥製は潮来つり具センターに鎮座し、今も栄光の輝きを放っている。ヒットルアーはアーマードスイマー。

池原のピークパフォーマンスを釣った男

相次ぐロクマル捕獲情報に村田基が動き出す

「そのロケの最中、針にかかった20cmくらいの小バスに3匹のロクマルがついてきて、そのうちの1匹がバフッと小バスを食った。この年には、池原で60cmのバスが釣れたという情報も初めて入ってきていて、翌97年にも1〜2本のロクマルがあがっていた。98年にはシマノの社員もロクマルを釣った。その社員が、『僕にも釣れるんだから村田さんに釣れないわけがない。国内でロクマル釣りましょう』って。僕は釣れるわけがないって言ったんだけど、『釣れるまで何日でもカメラ回し続けますから』って説得されて、それがあの『ジャパニーズドリーム』の動画なんです」

このロケで村田さんは、竿を出した6日間の実釣で65、64、63.5、62、61.5、60cmと、実に6本もの60アップをキャッチしている。

「ロケの前半はあと一歩のところでラインブレイク。ロクマルクラスになるとどんなルアーでも丸飲みしちゃうから、ラインを歯で切られてしまうんです。土日は店が忙しいから一度茨城に帰って、月曜に移動してまた3日間釣りをする、そんなかんじでした」

2000年6月8日に村田さんが池原ダムで釣り上げた69cm5840g。自己記録であるこの魚の剥製は潮来つり具センターに鎮座し、今も栄光の輝きを放っている。ヒットルアーはアーマードスイマー。

村田基が見た75cmクラス

その後も村田さんの快進撃は止まることを知らなかった。

「2000年4月には当時の自己記録である67cm5160gがアーマードスイマーで釣れた。その2ヶ月後の6月には、さらに記録を更新して69cm5840g。これが今でも僕の最高記録です。このときは、ほかに60アップ3本と50アップ7本を釣って、大きい方の5本の合計が20640gにもなったんです。まさに池原の絶頂期だった。あるロケのとき、前日に竿を持たずに下見でまわっていたんだけど、バスボートに同船していたカメラマンが『ちょっと、あれを見てください』って。指差す先の木の下を見ると、どう見ても70cmはゆうに超えている巨大なバスがいた。足が震えたよ。ロケ当日に同じ木に行ってみたけど、そのバスはいなくて、かわりに前日より小さいバスがそこにいた。それを釣ったら65cmもあったんだ。フロリダバス放流直後のダム工事による大減水と、急峻な地形が釣り人を寄せ付けなかったことで池原バスが巨大化したことは間違いない。現に、同時期にフロリダ系が入ったと考えられている琵琶湖では、このときはまだロクマルがほとんど釣れていなかった。琵琶湖でロクマルが釣れ始めたのは2002年ごろ。88年の放流から10年でロクマルを育んだ池原と、そうならなかった琵琶湖。その理由は明白なんだ」

池原ダムが教えてくれたもの

村田さんが池原ダムから学んだものはなんだったのか。

「やはりサイトフィッシングでしょうね。もともと、僕のサイトフィッシングの始まりは、アメリカ・フロリダキーズのボーンフィッシュなんです。あのボラとキスを足して2で割ったような魚ね。あの経験があったからこそサイトフィッシングが何たるかを学んだ気がした。当時は、サイトフィッシングはスポーニングベッドを狙う釣りだという考えもあったけど、サイトフィッシングはそれだけの手法ではない。魚がどう動くか、ときに魚の眼球の動きさえ観察してルアーを送り込み、仕留める。僕はいろいろな釣りをするから、オーストラリアのグレートバリアリーフ、沖縄の離島、バスだと野尻湖や桧原湖なんかでもサイトフィッシングは経験していたけど、池原ダムでそれらが集約された気がする。僕のサイトフィッシングが確立されたんだ。最初に池原でロクマルを釣ったときは、確かにスポーニングベッドの釣りだったけど、そのあと、どんどん釣り方が変わっていった。69cmを釣ったときも200〜300mの間を行ったり来たりしてバスを追いかけて釣ったんだ。池原で生まれた『マニピュレータープロセス』はバスを追いかけて何度もルアーを投入し、バスにセーフティーゾーンを意識させて釣る画期的な釣り方だった。ブラックバスという魚はちょっと変な魚ですよ。神経質な反面、慣れさせることもできる。以前、バスの飼育に法律の制限がなかったころ、田辺哲男が霞ヶ浦で釣った53cmのバスを飼っていたんですが、でかいバスも1週間で人間に慣れる。これまで何十種類も魚を飼ってきたけど、あんなに簡単に慣れる魚はいない。魚体に触れるくらいまでできちゃいますからね」

ジャパニーズドリームは今も池原にあり

池原ダムの黄金期は90年代後半から2000年初頭だったと言えるが、今でも池原ダムにジャパニーズドリームは存在するのだろうか。

「あると思いますよ。まだまだ池原で記録級のブラックバスが釣れる可能性はある。僕が池原ダムで釣りをしたのは、実は2001年のルアーマガジンの取材が最後なんです。そのとき親父が危篤で、それでも仕事だからってロケを敢行したんですが、ロケ当日の朝、釣りをしていたら親父の訃報が入り、急遽帰った。それが僕の最後の池原です。その後もいろいろな理由があって池原には行っていないけど、今でも夢を与えてくれるフィールドであることに変わりはない。昔、池原のボート屋さんに『村田さん、店の名前をつけてください』って頼まれて、池原ドリームっていう名前をつけさせてもらった。あのとき僕が経験したジャパニーズドリームはきっとまだ池原の地にありますよ」

ラインの太さごとに認定されるジャパンゲームフィッシュ協会の日本記録。写真は1998年に池原で村田さんが16lbラインで4.86kgを釣ったときのもの。

ロクマルに魅了されたバスマンたちは今日も池原ダムに通い、夢を追い求め続けるのだ。

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