
暖かくなり、アウトドアが楽しくなってきた季節。しかし、活動的になるのは人間だけではない。昨年、これまでにないほど出没情報が多かったクマたちも冬眠から目覚めているはず。今回は、北海道で活躍する渓流釣りのエキスパート「小川 貴恵」さんが、クマと近距離で遭遇した先輩アングラーのお話をレポートしてくれた。
●文/写真:小川 貴恵
ヒグマと近距離で遭遇した体験談
5月の連休も終わり新緑が眩しく、いよいよアウトドアシーズンの到来だと心が躍る季節になりましたが、昨年同様各地でクマの出没が相次いで報道されていますね。
ヒグマを捕らえるための箱罠。クマの出没が相次ぐ地域では、この罠を使用するなどの対策をしている。
今年はこれからどうなるかと考えながら報道を拝見したり改めて自分のヒグマ対策の装備品を確認したり釣りに行く河川選びも慎重になっています。
小川さんが発見したクマが木に登った跡。小川さんは木の上にもクマがいないか注意しているという。
今回の記事は同じ地元の先輩に伺ったヒグマと遭遇した時のお話と、私の経験したことの一部をご紹介していこうと思います。
ヒグマとの遭遇の経験談を語れるようになるまでは、それなりに時間が必要になります。私は何度も遭遇経験がありますが、ヒグマが目の前にいてクマスプレーを構えるような至近距離での遭遇を経験をしたときは落ち着くまでかなりの時間がかかりました。
小川さんが愛用する『熊一目散』
当時はあまりの恐怖でトラウマになってしまい、その経験をした場所にはその後一切近寄ることも出来なくなりました。遭遇してしまったことは自分の対策不足や注意不足であることも自覚しているし、自分の落ち度であり、武勇伝にも自慢話にもなりません。
不意にヒグマと至近距離で遭遇して、命が助かったのは、私はたまたま運が良かっただけのことだと思っています。命があるからこそ、その出来事を振り返り反省することもできます。今、クマの問題が広がる中で「不意に遭遇した時に人はどういう反応になるのか」という事を少しでも伝えたいし、「ヒグマに遭遇しても大丈夫」と油断されている方もいるかも知れないので注意喚起のために、私と先輩の体験談をお話をしていこうと思います。
仕事終わりのイブニングライズを狙う「夕方の釣行の危険性」
お話をしてくださったのは前回の記事でもお話を頂いた能登谷 真さん。仕事が早く終わって釣りをするのにいい状況だったので夕方に通いなれた河川で突然遭遇した時のお話だそうです。
能登谷さん「その日は仕事がいつもより早く終わったので前日から大量に飛んでいる羽アリが気になっていたので通勤路にある川の上流部にイブニングライズを求めて釣りに行きました」
能登谷さん「林道の駐車帯に車を停めていつも通り、目的のポイントに向かうために笹が覆い被さった小さな沢を伝い、足元を見ながら歩いてると前方にいつもは感じない『なんとも言えない違和感』を感じ、恐るおそる目線を足元から正面に向けると、ヒグマのお尻が見えました」
能登谷さん「しかも、距離は約10mくらいという近さ。頭では走って逃げたらダメだとか、やってはいけない行動も理解しているのですが、あまりの衝撃と恐怖心から猛ダッシュで沢を登って引き返してしまいました。ヒグマの鳴き声も聞こえたような感じもしましたけど、車まで一切後ろを振り向かずただひたすら逃げることに集中していたので、遭遇したヒグマはどのような行動をしていたのか分かりません」
能登谷さん「とにかくその場から離れる事に必死で無我夢中で逃げていました。こんな行動をしてしまって、ヒグマがこちらを向いていた場合ならば命は助からなかったかも知れません。やっとの思いで車に辿り着き、ドアを開けようとしましたが、車のドアロックはしていなかったはずなのに焦りで手元が狂いドアも上手く開けられずにいました。ドアが開いて車内に逃げ込むまで、とても長く恐ろしい時間に感じたことを今でも鮮明に覚えています」
能登谷さん「どうにか乗り込んだ車で林道を下り、途中で停車して気持ちを落ち着かせ、車内を見渡すと2ピースのフライロッドは何ピースだ?と思う程、原型をとどめない位に折れていましたし、リールもリールフットから外れていてウェーダーも汗や傷でボロボロになっていました。それくらい、周りが見えていなかったんです。それだけ怖かったんですね」
続けて能登谷さんは「とにかくあの時は無事に生きて戻れたことは本当に運が良かったと思っているんだよね」とおっしゃいました。
ヒグマとの至近距離での遭遇からの生還は「幸運」だった
能登谷さんはお話の中で、ヒグマと遭遇した時にしてはいけない行動をしてしまいましたが、その時幸運が重なっていなければ難を逃れることはできなかったのではないか? とお話していました。
してはいけない行動とは、お分かりになる方が多いとは思いますが「走って逃げた事」です。
ヒグマとの遭遇時はヒグマと目を合わせて背後を見せずにゆっくりとそのまま後退するというのが対処方法として周知されていますが、この時はヒグマの背後、お尻にすぐに気づきヒグマと顔を見合わせることなく逃げることができたので助かったのだと思うとお話されていました。
「そのおかげで助かったのかわからないけれどいずれにせよ助かったのは幸運だったし、その遭遇経験があるからこそ釣りの時は、より慎重にもなった」とお話されていました。
そして夕方という時間帯について、イブニングライズを狙う時間帯は能登谷さんと同様に私自身も遭遇したことがあります。能登谷さんともお話していましたが夕方と朝方はヒグマと比較的遭遇しやすい、目撃しやすい時間帯といわれているのでこの時間帯に釣行する際にはかなり注意が必要です。
私は夕方に何度も遭遇しているので地元の河川では出来るだけ16時位には脱渓するようにしています。ただ最近は私がヒグマを目撃している時間帯を考えると、もはや時間帯を問わずヒグマが出没しているように感じられるのでどの時間帯でも注意が必要だと私は思っています。
小川さんが以前目撃したヒグマ。電柱横の茶色い塊がヒグマだ。
このお話を聞くと能登谷さんのように、日頃からヒグマの危険性を理解していて、ヒグマと遭遇した時にどのような行動をするべきかということもしっかりと理解されている方でも、突然の遭遇では恐怖心から冷静に対処することが難しいということがお分かりいただけると思います。頭の中では理解していてもいざという時はどうしても動揺してしまうのです。
私自身、初めてヒグマに遭遇したときは全身が震えて指に力が入らなくなり、クマスプレーの安全装置がうまく取り外せず腰が抜けたような状況になり全く動くことが出来ませんでした。どうにかその場をやり過ごし車に戻った時にはクマスプレーを誤射していてウェーダーについていたり、顔や体中が木の枝や笹などで傷だらけになっていたりして、どうやって車に戻れたかも覚えていない程、動揺してしまっていました。
こういう経験があるからこそクマスプレーを携行しても絶対大丈夫ということはない、と油断せずにいられるし、発射までの一連の動作を繰り返し練習しておくことの大切さを強く感じています。そしてその前提として、何よりヒグマと遭遇しないための対策がとても大切だと思っています。
今回、能登谷さんのお話の中に「ドアロックはしていなかった」という言葉に疑問を持たれる方がいらっしゃるかもしれません。私もキーレスが普及していない時代は入渓地点に停めた車にドアロックをしていませんでした。
これは私と能登谷さんが幼い頃から聞かされてきたヒグマによる人身事故に由来しています。前回の記事で書かせていただいた叔父の友人の事故ですが、ヒグマに追われた際に車まで戻れたのですがドアロックをしていたため車の中に逃げることが出来ず、犠牲になってしまったという事故でした。この話を知っている人や、その話を聞かされて育った道南の一部の人は昔はドアロックをしないようにしていた人が多かったと思います。
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ヒグマに出会わないようにすることが何よりも大切なこと。
「ヒグマに襲われる確率は、交通事故に遭う確率よりも低い。だから滅多にそんなことは起こらない」と思っている方もいらっしゃるかもしれません。
ですが、それはあくまで全体的な数字の結果であり、山や川に入らない人の確率も含まれている表現です。山や渓流に行く以上、ヒグマに遭遇する可能性が高くなり常に危険と隣り合わせであることを釣り人は忘れてはならないと私は思っています。
そして「小さいクマなら勝てると思う」というご意見もよく聞きますが、クマに襲われて命が助かったとしても以前のような生活を送れている方は少ないと思います。
ツキノワグマによる外傷の治療にあたっている医師の本にも書かれていましたが、体の一部が欠損してしまったり、感染症や深刻なPTSDに悩まされていたり、命を失わなかったとしても、私たちがイメージするよりずっと後遺症がずっと重い事故も多く、ある意味「命に別状はない」という言葉が残酷に聞こえる場合もあると思います。相手は野生動物なので勝ち負けを考えるよりも遭遇しないようにすること、争わないことが大切ではないかと私は思っています。
様々な対策がありますが、渓流釣りにおいて基本的な対策の道具(クマ鈴やホイッスル、クマスプレー、場合によっては最終手段としてナイフやクマナタなどの刃物)は備えたほうがいいと思っています。
クマ鈴については様々な意見をよく目にしますが、知床財団のホームページにも出会わないために音を鳴らすという事が書かれています。一般的にヒグマの習性として人の存在に気づくと人を避ける事のほうが多いといわれています。(問題行動(人身事故など)を起こしたヒグマは「一般的」には該当しません。事故が起きた現場近くには対策をしていたとしても絶対に近づかないようにしましょう。)
ただし、知床財団のホームページの中の注意書きのなかで「音を鳴らすのと同じくらい周辺の音や気配を感じ取れるように気を付けてください。」と書かれているので音を鳴らして安心することなく、周りにも意識を向けて変化に気づけるように行動していただけたらと思います。
私も釣り人なので林道を歩き釣りに向かう時は、魚の事を考えて頭がいっぱいになっていたり、釣りをしている最中はついつい魚を釣る事だけを考えてしまったりすることもあります。
でも私は出来るだけそうならないように一旦落ち着くために深呼吸をして頭を一度整理して釣りしながらもなるべく視野を広く持ち、周りに注意をするように心がけています。そんな時に嫌な感じやいつもは感じない違和感がある時は、どんなに釣れていたとしても釣りをやめて引き返すように心がけています。
これから釣りもアウトドアスポーツもいいシーズンになりますが、同時に事故の可能性も高まる時期です。出来るだけ安全に楽しめるように、もしもの事も頭に入れて出来るだけの対策をしていただければと思います。
また次の記事でお会いしましょう。
小川 貴恵(おがわ・たかえ)
北海道出身、北海道在住の、TULALAフィールドスタッフ。釣り好きの父からの影響で、子供の頃からイワナ、ヤマメ、鮭釣りなどを始める。そのうち、自然と渓流魚の美しさに惹かれ、渓流トラウトをメインに狙うようになる。道内のトラウトフィッシングには精通しており、ルアーフィッシングを始め、フライフィッシングも行う多彩なアングラー。
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