
『オガケン大学』開校——。幼少期に米国で釣りを始め、大学での水産研究を通し学んだ豊富な知識や2回に渡る365日連続釣行など、人並外れた知識と経験を持つ小川健太郎さんが、「釣り」を魚の生態から解き明かす。今回は第2章『音と匂いの世界』・第4回目匂いで川を遡上するサケの秘密を暴く。
●文:小川健太郎 ●イラスト:大和なでしこ ●写真:ルアマガプラス編集部
小川健太郎(おがわ・けんたろう)
TULALAという釣り人ひとりひとりの思い描く特殊な竿を作るインディーズなメーカーをやってます。個人では昔ルアーマガジンをはじめ、多くの釣り、車やアウトドア、音楽、新聞からタウン誌などで連載を何本もやっていたライター/アングラーでしたが、大型のトラックに追突されて腰を痛めてバッサリ引退し、イラストやデザインなどの仕事に転向。以来10年以上連載を控えていましたが、webなら締め切りがない、という甘言に釣られてちょこっと書いてみることに。よろしくお願い申し上げます。
今日から「匂い」の話へ

教授「音の三回が終わりました。今日から後半___匂いと味の話に入ります」

生徒「匂いって、釣りに関係あるんですか?」
教授「大アリです。というより、音よりも古い歴史を持つ、根源的な感覚と言っていいかもしれません」

マスくん「私のご先祖の話が出ると聞いていましたが……」
教授「はい。サケの話から始めましょう。母川回帰、匂いがなければ起きない、驚くべき現象です」

バスくん「オレ、サーモン系の親戚いないっすけど、ちょっと気になる話っすね」
魚の鼻の構造:口とつながっていない独立した穴
(教授、黒板に魚の顔のアップを描く)
教授「まず魚の鼻の話から。バスくん、自分の鼻孔を知っていますか?」
バスくん「えっ……なんとなく上アゴのあたりにある穴っすよね。あんまり意識したことなかったっす」
教授「そうです。唇の上、左右に小さな穴があります。これが鼻孔です。ただ、人間の鼻とは大きく違う点があります。魚の鼻孔は、口腔とつながっていないんです」
生徒「口と鼻がつながってないんですか?」
教授「人間や哺乳類は、鼻から吸った空気が肺まで届くついでに、匂いを感じています。でも魚は違う。鼻孔は二つずつ前と後ろに一対あって、水が前の穴から入って後ろの穴から出るだけ。それだけで匂いを感知します」
マスくん「流れのある渓流では、水が勝手に通り過ぎてくれるので、常に匂いをチェックできています。止水のときは、頭を左右に振って水を通すことがあります」
生徒「首を振るだけで匂いが感じられるんですね」
教授「鼻孔の中には嗅上皮という感覚細胞があって、水に溶けた化学物質を感知します。ごくわずかな濃度でも反応できる、非常に精密な器官です」
バスくん「でも、鼻孔ってけっこう小さいっすよね。そんな小さい穴で、そんなに感知できるの?って正直思ってた」

教授「実はこれが過小評価されてきた器官なんです。研究室でメバルを使った実験があります。目を塞いだメバルと、鼻を塞いだメバルを、同じ場所に放流した。どちらが自分の棲み処に帰れたと思いますか?」
生徒「目を塞いだ方が帰れない……?」
教授「逆です。目を塞いだメバルは、きちんと元の棲み処に帰って、エサも食べた。でも、鼻を塞いだメバルは帰れず、エサも食べられないものが続出した」
バスくん「え、目より鼻の方が大事……?」
教授「少なくとも、帰巣とエサ探しには、視覚より嗅覚の方が重要だったということです」
サケの母川回帰-匂いの記憶だけで数百キロ旅をする

教授「そして、嗅覚の話で最も有名な現象がこれです。サケの母川回帰」
マスくん「……(静かに聞いている)」
教授「サケは川で生まれます。稚魚のうちに川を下り、海へ出て何年も過ごします。そして産卵のとき、生まれた川へ戻ってくる。数百キロ、時には千キロ以上の旅を経て、必ず自分が生まれた川へ」

生徒「その川を、どうやって探すんですか?」
教授「嗅覚で。生まれた川の匂いを、稚魚のときに記憶しているんです。川にはそれぞれ固有の化学物質の組み合わせが地形、土壌、植物、生物、これらが混ざり合って、その川だけの独特の匂いを作っています。それを幼い頃に嗅いで、ずっと覚えている」
マスくん「何年も……その匂いを、忘れないんですね」
教授「1926年の研究が最初です。サケの嗅神経を切断して放流すると、母川に戻れなかった。逆に、目を潰しても影響はなかった。嗅覚こそが母川回帰の鍵だと証明されました。その後も様々な実験で確認されており、川の本流だけでなく、支流の分岐点にまで匂いで判別していることがわかっています」
生徒「支流まで!?すごい……」
バスくん「何年も前の匂いを覚えてるって……オレ、昨日のことも怪しいっすよ」
マスくん「……(遠い目で)先祖たちは、ほんとうにすごいことをしているんですね」
教授「そして、この母川の匂いが刷り込まれるのは、稚魚のある時期だけ、という説が有力です。その窓が過ぎると、もう新しい川を故郷として記憶できない。まさに一生に一度の刷り込み」
バスやマスは何の匂いに反応するのか
教授「では、バスやマスといったルアー釣りのターゲットは、どんな匂いに反応するのでしょうか」
生徒「エサの匂い、ですよね?」
教授「大きく分けると、誘引物質、引き寄せる匂いと興奮物質、テンションをあげる匂いがあります。まず誘引という意味では、動物プランクトンの匂いが研究でよく挙げられます」
マスくん「渓流育ちなもので、カゲロウの幼生やユスリカの幼虫の匂いには、確かに敏感です。雨の後、上流から色々なものが流れてくるとき、なんとなく気持ちが高ぶる感じがします」
教授「それが化学物質に対する誘引反応です。傷ついた小魚の体液、血液やアミノ酸も誘引物質として知られています」
バスくん「あの匂い……正直、食欲そそるんすよ。上流からフラフラした小魚の気配がある気がして見てたら、本当に流れてきたことある」
教授「そういう体験は、嗅覚で先に察知してから視覚で確認した、という流れかもしれません」
匂いは「遅いが最も遠い」センサー
教授「音と匂いを比較してみましょう」(黒板に書く)
音:秒速1,500m。速い。でも遠くなると減衰する
匂い:流れに乗ってゆっくり広がる。速さはないが、非常に遠くまで届く
生徒「匂いの方が遠くまで届くんですか?」
教授「流れがある場所では、匂い物質は何十メートルも、条件次第ではもっと遠くまで流れていきます。音は速いですが、距離とともに減衰します。匂いは遅いが持続的で、水の流れと共に広がり続ける」
マスくん「上流で傷ついた虫や小魚の匂いが、川下まで伝わってくる̶̶釣り人が上流でエサを踏み荒らすと、魚に気づかれやすくなる、というのはそういうことですね」
バスくん「上流ばっかりガン見してたら、フラフラした小魚が流れてきたことがあるっていうのも、匂いで先に気づいてたのかもしれないっす」
教授「音→匂い→視覚の順番で発見する、という第1章の話を覚えていますか?その中で匂いは、音ほど速くないけれど、音が届かないほど遠い距離でも機能する。最も長距離な索餌センサーとも言えます」
忌避、魚が嫌がる匂いもある

教授「誘引の反対、魚が嫌う匂いの話もしておきましょう」
生徒「何かあるんですか?」
教授「傷ついた仲間の体から出る物質、これはコイ科の淡水魚の間では警報物質として機能することがわかっています。傷ついた仲間を避ける、仲間はずれにする行動が見られます」
バスくん「仲間はずれ……川の魚の群れで、ぐるぐる変な動きをしている一匹が出てきたら、他が離れる、みたいなシーンを見たことがある気がするっす」
教授「それかもしれません。肉食魚であるバスもこの物質に反応することがあるようです。傷ついた魚の匂いが、捕食スイッチを入れるとも考えられます」
マスくん「危険と食欲が表裏一体ということですね」
教授「次回は、もうひとつの忌避物質人間の匂いが魚にどう影響するか、そして集魚剤は本当に効くのか、という話をします」
今日のまとめ(黒板)
(教授、黒板に書く)
第2章第4回のポイント
鼻孔は前後一対。口腔とつながらず、水が通過するだけで匂いを感知
・嗅覚は視覚以上に、帰巣やエサ探しに重要(メバルの実験)
・サケの母川回帰:稚魚期に記憶した川の匂いを数年間保持し、何百キロもの旅で辿り着く
・バス・マスが反応する匂い:動物プランクトン、傷ついた小魚の体液など
・匂いは「遅いが最も遠い」センサー。流れに乗って広がり続ける
・傷ついた仲間の体液は警報物質として機能することがある
教授「匂いの世界は奥が深い。次回は、もっと実用的な話___集魚剤の科学へ踏み込みます」
マスくん「人間の匂い問題も、ぜひ聞きたいです」
バスくん「あ、それオレも気になってた。釣り人によって釣れる釣れないあるって言うじゃないっすか」
教授「そういうことも含めて、次回お話します」
次回予告:第2章第5回「集魚剤は効くのか?匂いの実用科学」
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